広瀬武の履歴書(2)未就学児

神奈川県の茅ヶ崎から立川に引っ越してきたのは、たしか僕が3歳ぐらいの頃だった。

当時「ナウい」と言われていたのであろう、セキスイハイム重量鉄骨造の真っ白な新築箱型住宅。建築当時は格好良かったのだと思うが、友達からは「弁当箱みたい」と揶揄されていた。

引っ越してきた時はまだ曽祖母が生きていて、僕が近くの公園で遊ぶ写真には曽祖母がよく一緒に写っていた。建坪42坪の4LDKに6人暮らし。一見少し狭いように思うが、失礼な話、曽祖母は近い将来そのうち死ぬと見越して間取りをプランニングしたのだろう。1階の和室に曽祖母。2階に12帖ほどの洋室が2部屋あり、それぞれ1世帯ずつの寝室。2階にもう1部屋4.5帖の洋室があり、ここは最初「書庫」として使っていた。

曽祖母と家から一番近い公園で↓

書庫には、文庫本のような普通の本はあまり置いていなかった。祖母が琴をやっていたためその楽譜や、書道の教科書、あとは祖母が美大卒だったので美術関連の分厚い本が沢山並んでいた記憶がある。その他、祖父のコレクションである「昭和の歴史」「立川の歴史」のような本が並んでいた。書庫の中でよく覚えているのが、祖父の「日経新聞の切り抜き」コレクションファイルで、毎日切り取っては難しいことが分からない僕に対し云々と説明して貼っていた。この毎日のルーティーンが正直苦痛だったからなのか、逆に記憶に残っている。

母、祖父、祖母↓

ただ、書庫自体は色々なものが置いてあり、何かを手に取って眺めていると楽しい秘密基地のような空間だったため、暇があれば書庫に籠った。そして、幼稚園に入る頃には自分専用の部屋が欲しいと僕がごね始め、書庫は占有の末、僕の部屋になった。いざ自分の部屋になると読んでいて楽しかった本も邪魔になり、置いてあった本の大部分を祖父祖母の部屋に追いやって、自分の新しいベッドを迎え入れた。

通っていた幼稚園までは、歩くと少し距離があった。当時はまだ送迎バスが無く、行きは母の自転車、帰りは縦一列に子供達が並んで歩く「お帰り列車」で帰った。幼稚園の最上階は異なる仕様になっていて、幼稚園OBの小学生が通う習字教室になっていた。双方派手好きということもあり幼稚園の副園長と祖母の仲が良く、祖母の意向で僕は幼稚園の頃からこの習字教室に入らされた。これがきつかった。というのも、元来左利きの僕をどうしても右利きに直したいという大人(祖母、副園長)のプレッシャーがきつく、無理矢理右手で文字を書いても全然楽しくなかった。結局小学校を卒業するまで通い続け最上級の八段まで取ったが、願い叶わず左利きは直らなかった。

幼稚園は立飛の近くで、周りはまだ立川飛行場の名残りで広大な空き地だらけだった。どれだけ広大かと言えば、ららぽーと立川が現在建っている場所が昔はだだっ広い野原で、皆でお散歩する時はいつもそこまで歩いた。立川の駅ビルもまだルミネになる前で、たしか「ウィル」だった。今はビックカメラが入っているビルに伊勢丹があり、北口の駅の一番良いところは殆ど銀行。駅から少し離れると大きな空き地。

競輪場と競馬の場外馬券場があり、戦後すぐは米軍の街だったからなのか、昔の立川は治安が悪かった気がする。昔、駅前にピタゴラス通りという路地があったのだが、昼間なのにどこか薄暗く、親と一緒でも少し怖かった記憶がある。そんな立川がこれから大きく変わると大人から聞かされたのは、ちょうど幼稚園を卒園する頃だった。

続く

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